紹介
 
 

◆鈴木正三(しょうさん)はこんな人

觀音禪寺開基の鈴木正三は三河の人で、天正7年(1579)則定城主鈴木忠兵衛重次の長男として生まれました。同18年(1590)上総国に移住。慶長5年(1600)徳川秀忠軍に従って信州真田で初陣。大坂の陣にも従軍して、慶長20年(1615)二百石を賜り、旗本となりました。元和6年(1620)に出家して、大きな足跡を残すことになります。

出家して三河に帰った正三は、はじめ千鳥寺で、次いで鈴木家の領地であった山中村の石ノ平で修行をしました。そして正三はここに石平恩真寺を建てて生涯の拠りどころにし、石平道人と号しました。

正三はまた江戸前期の仮名草子作者としても知られます。著書の多くは仏教的教化のために書かれたものですが、「因果物語」「二人比丘尼」は、のちの仮名草子・浮世草子に影響を与えたといわれています。

 
       

寛永14〜15年(1637〜38)の島原の乱後、初代天草代官となった弟の鈴木重成(三郎九郎)は、兄正三を招いて荒廃した天草の復興に尽力しました。村組織の編成、社寺の復興など、特に島原の困窮を救うため、石高半減を幕府に訴え続け、江戸で自刃。二代代官鈴木重辰(正三の実子で重成の養子)もこのことに努力したので、四万二千石は半減されました。これに感謝した天草の人々は二十数ヵ所に鈴木塚を築きました。

晩年の正三は、八王子の豪族井上出羽に招かれて、堅叔庵の開山となり、弟子の恵中が堅叔庵の二世となりました。 明暦元年(1655)没。

この觀音禪寺は、慶安元年(1648)に戦乱のため荒れていた寺を弟の鈴木重成(三郎九郎)を施主に正三を開基として再興されたものです。正三の多くの門人のうち長老の不三が、師の在世中より住して正三の禅風を伝えていました。

 

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