本尊 | 十一面観世音菩薩(秘仏)伝 聖徳太子造 | |
開祖 | 聖德太子 | |
開山 | 金蕭菩薩 | |
開基 | 良弁僧正(奈良・東大寺開基) | |
創建 | 仁寿三年(853)法満寺五別院と成る | |
中興 | 寛文二年(1662)列岑宗鈞禅師 | |
再中興 | 元禄年間(1688-1704)西鮮禅東禅師 | |
再再中興 | 大正七年(1918)瑞岳玉道禅師 |
観音禅寺の由緒
当寺は仁寿三年(853) 、もと小口・山中一帯に大伽藍を有していた法満寺の五別院(観音寺・薬師寺・法鏡寺・尊乗寺・弓削寺) の一として、現在よりも少し北にある松ヶ丘観音谷に草創されたのを、その濫觴とする。
観音寺の母体となる法満寺は、文武帝の世にあって大宝律令が制定された大宝元年(701)に創建された。開基は金蕭菩薩であると伝えられている 。平城京遷都の天平十一年(739)に南都東大寺開山・良辯僧正(689-773)によって伽藍が整えられた。
平安時代後期の寛治六年(1092)、堀河帝より官載伽藍を賜ったことで官寺と定められると共に前述の五別院が再建され、最盛時には山中(やまなか)を中心に広大な寺領を有し、僧房五十六宇を数える大伽藍を誇ったという 。
天正年間(1573-1592)、織田信長の兵によって法満寺は全山焼き討ちに遭ったが 、不思議にも当山の十一面観音様だけが焼け残った。焼け野原に厳かなお姿で佇んでおられた観音様のお顔は慈悲に満ちあふれ、人びとの争いを憐れんでおられるようであったという。
その後、無住の時期を経るも、江戸期に入り正保三年(1646)、小口の奥家により山林が喜捨され、さらに寛文二年(1662)、列岑鈞禅師(?-1702)が当処へ来たりて、この観音を小口邑末代までの氏仏として祀れとの夢告により、現在の地に寺を建立。元禄年間(1688-1704)に至って臨済宗の西鮮禅東禅師(?-1714)がここを禅寺とした。
明治期に再び無住となるも、大正七年(1918)、瑞岳玉道尼が堂宇の修復に尽力。その後、三代にわたり尼僧が住持を務め、小口の人々によって護持運営されてきた。正に心が形となって現れた寺といえる。現在、臨済宗妙心寺派に属す禅寺として、小庵ながらも地域を見守っている。
観音禅寺の仏さま
当山の本尊は十一面観世音菩薩である。その尊像は当寺の創建よりも古く、斑鳩宮が建立された推古帝九年(601)、聖徳太子が28歳の砌、一刀三礼(一彫りごとに五体投地の礼を三度すること)によって彫られたと伝えられる。長く法満寺の守護尊とされていた秘仏である。六十年に一度の大開帳と、三十年に一度の中開帳の節目にのみ、その姿を拝むことができる。最近では、平成十二年(2000)に大開張が行われた。地域の安穩を見守る「小口の観音さん」として親しまれると共に、たいへん霊験あらたかであることで知られ、篤い信仰を集めている。
本堂内には、そのほかに十一面観音、大日如来、十二支仏、愛染明王、弘法大師などが祀られている。
境内の稲荷堂には、白鬚稲荷大明神、および毘沙門天・弁財天・歓喜天が祀られている。家内安全・風雨調順・五穀豊穣・降魔厄除・技芸熟達・学業成就・福徳賦与・商売繁盛・業運隆盛・武運長久・良縁成就・夫婦和合・家庭円満・子宝授与などのご利益が有り、独自に信仰を集めている。
行者堂に祀られている役行者(役優婆塞)は、神通力に勝れた修験道の開祖であり、神変大菩薩として仰がれている。当地域から大峰山に詣でる際は必ずここでお勤めをしてから入峰するならわしとなっている。
観音禅寺 年表
推古帝九年(601) 聖徳太子(574年 ~622年 )28歳の砌、当寺本尊十一面観自在菩薩立像を一刀三礼して親彫(のちの法満寺本地仏となる)。 |
大宝元年(701) 金蕭大菩薩によって牟禮山に法満寺が開かれる。(本尊は丈六釈迦牟尼仏) |
天平十七年(745) 良辯僧正(689-773)により法満寺の伽藍が建立される。 |
仁寿三年(853) 法満寺五別院の一として観音寺が創立される。場所は小口觀音谷(今の松ヶ岡団地東端) 。 |
承暦二年(1078) 法満寺衆徒、箱石山雲冠寺を焼き討つ。雲冠寺は全焼し、後に正円上人により再建される。 |
寛治六年(1092) 法満寺、堀河帝(1086-1107)より官載伽藍を賜り、法満寺別院五箇所(薬師寺・法鏡寺・尊乗寺・弓削寺・観音寺)が再建される。法満寺は、最盛時には山中(やまなか)を中心に広大な寺領を有し、僧房五十六宇を数える大伽藍を誇ったという |
長禄3年(1459年)~寛正2年(1461年) 長禄・寛正の飢饉おこる。 |
寛正年中(1460-1466:室町幕府第8代将軍足利義政の治世) 小口邑(観音寺・法性寺・大谷・山中)より山中邑が分離独立。(本誓寺往古記) |
元亀二年(1571) 箱石山雲冠寺が織田氏の兵火により全焼。 |
天正年間(1573-1592) 法満寺、兵火により全焼。観音寺の観音像のみが厳然として残る。 |
寛永六年(1629) 小口の集落が祖父川の西より川東へと遷る(出屋敷)。 |
正保二年(1645) 当時観音寺と申す禅宗の寺あり。是は当節知信という尼僧のいた庵室であったが、觀音寺村より観世音菩薩を勧請し、庵室へ尊敬の上、寺号を觀音寺と号して京都妙心寺の末寺となった」と。(小口本誓寺の往古記による。ただし当寺の伝では正保三年に遷座したと伝える) |
正保三年(1646) 奥東江家の践祚の所有山林が観音寺に寄贈される。(元禄五年(1692)、奥東江先生の家に遺された「遺誡の条条」に依る) |
寛文二年(1662) 列岑宗鈞禅師、牟禮山観音寺を再建(中興開山)。列岑禅師は、夢告により観音像を今の臨川山に迎え、小口邑末代までの氏仏として崇め奉り、この地に一寺を建立して寺号を牟礼山観音寺と称す。(観音寺文書) |
元禄十五年(1702)正月十九日 中興開山列岑鈞禅師 遷化。 |
元禄年間(1688-1704) 西鮮禅東禅師、新たに法脈を立てて開創(再中興)。 |
正德四年(1714) 再中興開基西鮮禅東禅師 遷化。 |
明治九年(1876)十二月九日 当山第六代住持・臨山惠温禅師遷化。一度法脈絶えるも、俊道志英禅師、次いで清嶽文冷禅師が歴住。清嶽文冷禅師遷化後、久しく無住となる。 |
大正七年(1918) 当山第九代住持・瑞岳玉道尼が住し、諸堂の修復に尽力(再再中興)。その後、瑞道玉洲尼(僧名:原玉州;1910-1986)、鏡堂宜明尼(1925-2006)と歴住。 |
平成十九年(2007) 絶學叡禮(現住職;僧名:吉田叡禮)住して現在に至る。 |
観音禅寺の法系と歴代住職(臨済宗となって後)
<法系>
開祖 西鮮禅東(正德四暦<1714>甲午正月七日寂)
二世 南農慧畯(寶暦五歳<1755>己亥霜月朔日寂)
三世 高泉祖胤
四世 乾道志元(文化三年寅年<1806>十一月九日寂)
五世 寛渓志厚
六世 臨山惠温(明治九年<1876>十二月九日寂)
七世 瑞岳玉道
八世 瑞道玉洲
九世 鏡堂宜明
十世 絶學叡禮
<歴代>
開祖 西鮮禅東
二代 南農慧畯
三代 高泉祖胤
四代 乾道志元
五代 寛渓志厚
六代 臨山惠温
七代 俊道志英
八代 清嶽文冷
九代 瑞岳玉道
十代 瑞道玉州
十一代 鏡堂宜明
十二代 湖山泰邦(徳昌寺住職兼務)
十三代 絶學叡禮
観音禅寺の風光
境内から見渡せる牟礼公園は、竜王八景の一つに数えられ、その向うには小口の家並み、そして雪野山が見渡せ、鈴鹿山脈までも一望できる。池を貫く松並木の参道は世俗の塵を絶し、上り龍のように見えるその姿から「牟禮の橋立」と呼ばれている。春になると向こう岸と真気神社参道に桜花が霞に舞い、夏には脇の池に蓮華が咲き乱れる。そよ風に揺れる蓮の花をとおして臨む観音寺の山容は、はるか南海に浮かぶ観音の浄土・補陀落山を想起させる。
年間行事
詳しくは年間行事のページをご覧ください。
月日 | 行事名 | 備考 |
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1月1日-3日 | 修正会 | 新年の厄除開運の祈祷(朝の勤行時、および随時に行います) |
1月20日 | 初観音 | 新年最初の観音さまの縁日(14:00~) |
旧暦初午の日 | 初午大祭 | 旧暦で行っています。稲荷堂で餅撒きが行われます。(14:00~) |
5月8日 | 釈迦降誕会 | お釈迦様の誕生日(旧暦4月8日)花祭りとも潅仏会ともいいます。(14:00~) |
7月7日 | 蓮華会・七夕 | 役行者さまに蓮華をお供えします。併せて七夕の法要を営みます。(14:00~) |
7月20日 | 曝涼会(むしぼし) | 南瓜と力餅をいただき、厄を祓い気力を再生します。(14:00~) |
8月20日 | 施餓鬼 | 故人を供養するお盆のころの行事。ペットや牛の供養も行います。(14:00~) |
9月仲秋 | 観月会 | 仲秋の満月の日の前後の土曜日か日曜日(17:00~)に行います。 |
11月15日 | 七五三詣 | 11月中なら可。1週間前にご予約ください。(随時) |
12月8日 | お火焚き・成道會 | 一年の災厄を祓い、釈尊の成道を祝って気力を再生する日です。(14:00~) |
12月31日 | 除夜の鐘・越年祈祷 | 一年への感謝と厄祓い、そして延年益寿を祈ります。(23:00~) |